龍谷大学経済学部教授 竹中正治
その2:情報通信、AI技術の発達と所得格差の拡大
前回は経済・金融のグローバル化と既存先進国内の所得格差の関係について述べた。今回は90年代以降の情報通信から近年のAIに代表される技術革新の関係について考えてみよう。この点についても既に多くの文献があるが、一般書でひとつ挙げると、タイラー・コーエン著の「大格差(AverageIsOver)」(NTT出版2014年)だ。
本書の主たる内容は、情報技術革命、とりわけ人工知能の急速な発達が所得格差の一層の拡大をもたらすという技術革新による経済格差論だ。つまり従来のホワイトカラー中間所得層の仕事を機械が代替する傾向が進む。その結果、これまでの中間所得層は、低賃金の現場労働者と高付加価値の知的創造的労働者に二極化していく。
人工知能の急速な発達で、医師や法律家、エコノミストなどの業務領域もコンベンショナルな業務から次第に人工知能に代替される。そうした技術環境の中で、優位に立ち高所得を享受できるのは、人工知能の機能をフルに活用しながらそれと協業できる業務クラスの人材であるという内容だ。これは近年では目新しい説ではない。同分野の関連書籍としては、「機械との競争(RaceAgainstTheMachine)」(邦訳、日経BP社、2013年)などがある。
コーエンによると、上述した技術革新の波は、おそらく人口の10~15%の人々にますます経済的な豊かさをもたらし、それ以外の人々の所得は頭打ち、あるいは減少するかもしれないという。(275ページ)つまり2極化は1%対99%ではなく、15%対85%だという。
もちろん機械による労働の代替も複数の発展段階がある。例えば、1970年代から80年代の銀行ATMの普及、さらに90年代後半以降のオンラインバンキングは銀行のカウンターでのテラーとその後方事務作業に従事する雇用を減少させた。近年では比較的専門性が高い業務であった与信審査業務がAIで代替される方向に進んでいる。
中所得層を成すホワイトカラー労働の機械による代替は、IT革命の初期である1990年代に顕著になり、1990年代前半の米国の景気回復期には従来の回復期より雇用の増加が遅く“joblessrecovery”と呼ばれた。2001年の景気後退からの回復期はさらに雇用の増加が小さく“joblessrecovery”と呼ばれた。
ピケティの格差論
この論考の次の問題は、こうした所得格差の拡大がどのような政治的な変化を生み出すかであるが、その前に所得格差問題として一時期非常に話題となったピケティの議論も振り返っておこう。トマ・ピケティの「21世紀の資本論」が出版された2014年から15年にかけて世界的な話題となった。私が理解した範囲で、まずピケティの主張の核心と問題点をまとめてみよう。
ピケティの中核的な命題は次のように要約できる。①資産(資本)のリターン(r:配当、金利、賃料など)は労働所得の伸び率(g)を長期的に上回るので、所得と富の格差は税制などで調整しない限り拡大が続く(r>g)。②20世紀以前は資本のリターン(特に税引き後のリターン)と経済成長による労働所得の伸び率のギャップは、資本のリターンが高い方向に著しく乖離していたが、20世紀はその乖離は縮小し、ほぼ解消した時代だった。しかし21世紀入って、それは再び拡大に向かうだろう。経済が低成長であるほどこの格差は拡大する力が働く。
このピケティの議論に対しては出版と同時に各種の批判が寄せられた。第1は、例えば米国で1980年以降顕著に見られる所得の格差拡大がピケティの資本主義の原理で主要に説明できるわけではないことだ。実際のところ、「r>g」によって所得格差の拡大が起こるならば、国民所得に占める資本所得と労働所得の分配率が、資本所得比率の増加の方向に趨勢的に変化するはずである。
ところが1980年から2000年代初頭までの米国の資本所得比率は概ね20%から25%前後のレンジで変動しており、趨勢的な上昇は見られない。資本所得比率の趨勢的と上昇と言えるような変化は2000年代半ば以降見られるものだ。しかし1980年代から2000年代前半の期間に米国の所得分配の顕著な格差拡大が進んだ。
例えば家計の所得全体に占めるトップ10%の富裕層のシェアは、1980年頃には34%程度だったが、10ポイント以上も上昇し2000年代半ばには40%台の後半に達している。またトップ1%が占める比率は10%前後から20%以上に上昇している。従ってピケティの「r>g」以外の要因がこの時期に所得格差拡大をもたらしていることになる(この点はピケティ自身も認めている)。
では何が米国のこの時期の所得拡大の要因なのか。これについては連邦議会予算局(CBO)の詳細な分析レポートがある(文末引用文献参照)。それによると1979年から2007年の期間について、所得拡大の70%は労働所得の格差拡大に求めることができる。
資本所得(除くキャピタルゲイン)も所得格差拡大の要因にはなっているが、家計の総所得に占めるそのシェアはピーク時の1981年でも14%であり、2007年には10%に低下している。またキャピタルゲインの同比率は1979年が4%、2007年が8%である。
では労働所得の格差拡大要因は何か。これについても様々な議論があるが、観測される事実としては、①CEOと平均労働者給与所得の格差拡大、②高スキル労働者と中低位スキル労働者の給与所得格差の拡大などが指摘されている。①は政治的、経営組織論的な文脈で語られることが多く、②は経済のグローバル化や技術革新、つまり資本(機械)による労働の代替の文脈で語られてきた。
ピケティの命題でもう一点注意が必要なのは、資産(資本)所得の消費の問題だ。資産所得は配当や利息、賃料を生むわけだが、それが仮に5%(税引き後)だとしよう。一方、労働所得の伸びは3%としよう(名目)。5%複利で資本が富を拡大していくことがピケッティの議論では想定され、当然それは労働所得の複利3%の伸びを凌駕する。しかしそれが成り立つためには、資本所得が消費されずに再投資されることが前提になる。
しかし資本所得についても労働所得と同じように消費される部分がある。したがって実際には5%複利で資本が増殖することはありえない。実際の資本の増加は、消費によって資本の投資リターン自体よりもかなり低いものになるはずだ。
またこの点で、ピケティは人的資本以外の全ての資産(含む不動産)を「資本」としているのだが、マクロ的に大きな比率を占める資本は住宅資産、とりわけその中でも大きな比率を占めるのは自己居住用の住宅資産だ。それが生み出す所得(帰属家賃)は100%消費されているわけであり、ピケティの議論の穴になっている可能性がある。
もっとも筆者はピケティの「r>g」の命題が、現代の所得格差の要因として否定されるものとは考えていない。①前回述べた経済・金融のグローバル化要因、②今回冒頭で述べた技術革新要因、③米国で特に顕著な資産所得への課税が低率で優遇され過ぎている税法上の問題とCEOの報酬がヘッドハンティングやM&Aを通じて過剰に高騰する問題、④ピケティの「r>g」の原理、主要にはこれら4要因が複合された結果として現代の所得・資産格差が拡大しているのだと考えられる。
引用文献
タイラー・コーエン(TylerCowen)「大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか(AverageIsOver)」邦訳、NTT出版、2014年
エリック・ブリニョルフソン(ErikBrynjolfsson),アンドリュー・マカフィー(AndrewMcAfee)「機械との競争(RaceAgainstTheMachine)」邦訳、日経BP、2013年
トマ・ピケティ(ThomasPiketty)「21世紀の資本(LeCapital)」邦訳、みすず書房、2014年
CongressionalBudgetOffice“TrendsintheDistributionofHouseholdsIncomebetween1979and2007”2011
筆者経歴
竹中正治氏は龍谷大学経済学部教授。1979年東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)入行、為替資金部次長、調査部次長、ワシントンDC駐在員事務所長、国際通貨研究所チーフエコノミストを経て、2009年4月より現職、経済学博士(京都大学)。最新著作「稼ぐ経済学~黄金の波に乗る知の技法」(光文社、2013年5月)
以上