3 月 29

国際フリーターとしてグローバルに動いていると「Life is funny」とときめく偶然に出くわすことがある。2003年、ワシントンのシンクタンク(ブルッキングス研究所)で勤務している時、ランチのセミナーで同じテーブルについたモンゴル人と話しが弾んだ。当時の僕は、国連機関のモンゴルの地域担当官も経験し、日本の地方政府が主役となるフォーラムをモンゴルで開催した経緯もありモンゴルへの想いは強かった。また、「北東アジアグランドデザイン」を作成するに安全保障の観点からモンゴルの役割は重要だと認識していた。

同じテーブルについたモンゴル人は、ハーバード大学に留学し、国連のプロジェクトに関わっているということ、更に驚いたことにモンゴルの首相も経験したという。相手が前首相でも僕の方が年上だったのでイージーゴーイングな付き合いがスタートした。その後、交流を深める内に冗談で「貴方が再びモンゴルのトップになったら安全保障に関わるプロジェクトを一緒に推進したく思うのでその節は宜しく」と約束を交わしたのが10年近く前。

驚くことに再びこのモンゴル人は首相に帰り咲いたのである。モンゴルに行こうと思っているうちに何と、彼は再び首相の座を追われたのである。タイミングを逸したのでそれ以来、モンゴルの動向から疎くなっていた。

先日、テレビを観ていたら安倍総理が今月の末にモンゴルを訪問されるというニュースが流れていた。テレビに映る安倍総理のカウンターパートであるモンゴルの大統領は、驚ことにワシントンで会ったエルベグドルジ氏であった。急ぎインターネットで検索してみると何と数年前に大統領に就任されていたのである。

前置きが長くなってしまったが、安全保障の観点から北東アジアの協調的安全保障、とりわけ北朝鮮問題に大いなる貢献を担う潜在的可能性を秘めているのがモンゴルである。安倍総理がワシントンの次にウランバートル訪問を急に決断され経緯からもモンゴルの重要性を解読できる。袋小路にある日朝関係や拉致問題への解決にモンゴルのカードは有効に機能すると分析する。

第一、朝鮮半島の38度線を境に北朝鮮・中国・ロシアVS韓国・日本・米国の勢力均衡で分断されてきた。しかし、北朝鮮が核と長距離弾道ミサイルを保有することによりステータス・クオ(現状維持)の戦略に変化がみられる。北朝鮮との関係が緊密で北東アジアの一角をなすモンゴルが中露或いは日米と関係を強化するかで北東アジアの地政学的変化が起こる。

第二、モンゴルと中国の内モンゴルとの関係などからモンゴル人は嫌中意識が強く、反対に相撲、ODA等のソフトパワーの側面から日本とモンゴルの関係は極めて良好である。
司馬遼太郎の「街道を行く・モンゴル編」にあるように蒙古斑を有する日本人はモンゴルに親しみを感いている人が多いと思う。北東アジアの勢力均衡に影響力を持っているのがモンゴルである。

第三、北朝鮮とモンゴルの産業構造や政治システムに共通項がある。レアメタルを有する両国は緊密に連携する必要があり、モンゴル国と内モンゴルとの関係は北朝鮮と韓国の関係に似ており、冷戦崩壊後のモンゴルの推移は北朝鮮への参考となる。

第四、米ソの冷戦構造が終焉した背景には、中国と米国の接近にあった。両国に外交のパイプが存在してない時に両国を結びつけたのはパキスタンであったとキッシンジャー氏は語っている。日朝の国交がない現在、パキスタンのような役割を演じることができるのはモンゴルである。拉致問題解決に必ずモンゴル・カードが切り札になると考えられる。

以上の考察から、時は今、日本とモンゴルの関係を天然資源や経済連携協定と言った視点だけで捉えるのでなく、東アジアの安全保障の観点からプラグマティズムで外交、ソフトパワーで推進する。ひいては、モンゴルとの戦略的な協力が北朝鮮の拉致問題解決につながると読む。

安倍総理が世界190カ国の中から米国に次ぐ訪問国としてモンゴルを選択された先見性に敬意を払いたく思う。同時に、国連やブルッキングス研究所等での経験が、「Life is funny」というグローバル・ネットワークの奇遇に直結することを喜ばしく思う。

3 月 06

哲学するとは本質を探索することにある。日本人の本質とは。世界の中で日本はどのように映っており、どのような役割を担っているのかということをビジネスと教育の視点を踏まえ考察してみたい。

世界の様々なところで生活し、異文化コミュニケーションを通じ客観的に感じた一般的な日本人のイメージは、真面目で協調性があり個人を犠牲にしても会社や組織に重きを置くといったところか。

しかし、日本人は組織や会社が好きかと問いかけてみると、本当にそうだろうか。むしろ日本人はある意味ではすごく個性を重んじる本質的なDNAを持ち合わせているのではないだろうか。

例えば、多くの日本人がそうであるように、会社員になり毎朝同じ時間に起き、満員電車で通勤し、40年近く同じ会社や組織で勤務する。定年までリスクを犯すことなく安泰な会社人生を全うすることを成功と考えている。東京で通勤するサラリーマンの朝の無表情は、まるで共産主義国家の末期を連想させる悲壮感に溢れている。30年前もそうであったし今も一向に変化がない。恐らく世界中のどこを探しても朝の東京の通勤の表情ほど笑顔がなく画一化されたものはないだろう。

組織や会社に帰属しなければ生活できないという構造が日本人を組織化していると考えられる。朝の通勤模様から観察されるように本当に日本人は組織に属して幸せなのかと考えさせられる。きっと、日本人は個を磨くことに長けているのではないだろうか。

それを端的に現しているのが日本のスポーツである。欧米のスポーツはサッカーやラグビー、野球といった団体スポーツが主流である。それに反して日本の伝統スポーツは剣道、柔道、空手といった個を重んじるスポーツである。

また、グローバリゼーションの世の中において世界で通用する日本の技術は大企業の画一的な製品よりも中小企業の匠の技術に移りつつある。世界のトップ企業は日本の中小企業の匠の技術をアウトソーシングとして活用している動きが増している。

日本の伝統的なスポーツと匠の技術から観られるように日本人が本来の力を最大限に発揮できるのは「道を極める」ような自分の内部を鍛える個性的な生き方であるようだ。

産業革命の影響や戦後の米国の共産主義封じ込める政策の一環として大量生産や輸出主導型の産業構造が機能してきた。しかし、平成の不景気の本質は日本人が本来備えている個の能力を発揮する環境が制約されたところにあると考える。

結局のところ日本の学校教育に行き着く。進学校やトップレベルの大学に入るためには暗記中心の修行の洗礼を受けなければいけない。とにかく考えたり創造したりする個の能力を制限するのが日本の教育である。世界の大学やシンクタンクで習得したことは、自分の頭で考えるという行為である。それもルソーが「自然に帰れ」と唱えるように歩きながら個人の内なる潜在的な能力を引き出しながら考えるということの重要性である。

日本、それはユーラシアの東の果てに位置する国家。東洋に定住した多彩な血統を持つ柔軟性に充ちた個性的な国家であると思う。アングロサクソンやユダヤ人に見られるように優秀な民族は端にたどり着くと考えると日本人はもっと世界で輝くべきなのである。

世界のトップ企業は日本人が本来追求してきた個を磨く匠の集団のようなグローバルな経営戦略を追求している。日本も会社や組織の歯車として働くのでなく、個人の力が発揮できる匠の集団としての社会にギアチェンジすることが肝要であろう。久しぶりに上昇気流にある日本の政治・経済において日本人の本質が活かされる社会構造が基盤となることを期待したい。