12 月 31

中野:みなさんこんばんは。火曜日夕方6時はラジオカフェーシンクタンクジャーナルの時間です。
 100年前に財団法人南洋協会が設立されたんですが、その創設メンバーは本当にすごいです。犬養毅、第29代内閣総理大臣、文部大臣、外務大臣を歴任し、五・一五事件で暗殺されたのですが、ロンドン軍集会議で活躍され、カンジー、ネール、タゴール、孫文と並ぶアジア主義者でした。新渡戸稲造は、京大教授、東京女子大学学長、国際連盟のナンバー2として活躍されました。日本の資本主義の父と言われた渋沢栄一、第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎、外務大臣、大東亜大臣を経験され、陸軍の反対を押し切って大東亜戦争を終戦に導いています。セイコーの創業者の服部金太郎、読売新聞主執で衆議院議員の竹越興三郎、中野武営は衆議院議員で初代の東京商工会の会頭、陸軍大臣の大島健一、第4代慶應塾長の鎌田栄吉、満鉄総裁の中村是高、ロシアの世界最強といわれたバルチック艦隊を破った戦艦三笠で指揮をした秋山真之、東京芸大創設者の目賀田種太郎などなど。
 その中でも事実上の中心人物が実は井上雅二で非常に魅力的な人です。中国朝鮮台湾を歩き回って、ウィーン大学やベルリン大学で学んだ東西のバランスがとれた人物です。設立の時から20年程、専務理事として人材育成を中心に据えたのです。以上、南洋協会のメンバーの一部を紹介させていただきました。
李:南洋協会の4代目会頭に近衛文麿さんがいますよね。彼はすごい人ですよね。近衛さんが、私勉強不足で何年に4代目の会頭に就任したかというのはちょっとまだつかめなかったんですが、彼の生涯を見てみますと、太平洋戦争に突入する前に内閣を投げ出すんですね。自分は自信がないと、もうあなたたちやりなさいと。東条英機がその後、内閣総理大臣に就任するんだけれども、この戦争は間違いなく負けるんだということで東条英機に引導を渡しました。
 その当時、南洋協会というのはかなり活動的で、ベトナムに南洋協会の学校を作ったりしています。当時に会頭に就任した人の考えが南洋協会にすごく影響を与えたのは間違いないですね。ですから、終戦間際、そのまえに近衛さんが会頭になったというのは南洋協会にとってある意味戦争と一線を画したと言えるのではないかと僕は思うんですが、先生はどうですか?
大西:個別的な人物の動きというのは知らないですが、私は当時の雑誌とか講演録をいろいろ眺めて、おもしろいと思う発言がいくつかあるんですね。先ほど2回目に述べたように聖戦とか、戦争に向かわせるような発言はもちろんあるんですが、彼らは実業家たちですからこういう風にも言ってますね。
 「指導階級の無責任な一方的な報告を鵜呑みにしたる、不謹慎なる南進論、南方旅行者の軽薄な行動、興味本位の旅行団など」といった表現や、こうした新聞雑誌に掲載される記事によって不利益を得ているとか、どこか儀礼的な親善工作は逆効果であるとか、書かれています。いかにも財界人というか、経済活動をその場でやっている人間ならではの内容ですね。そういうものも実は南洋協会のいくつかの活動の中の一項目でした。
李:実は僕は南洋ではなく、満州が博士論文です。だからそういう立場からすると、政治の事はさておいたとしても、当時日本が南洋に行かなかったら、ある意味歴史は変わっていたんですよ。最初満州をどうするかいろいろありましたけれども、日本は南洋に積極的に取り組んでからおかしくなったんですよ。
中野:ドイツが世界大戦で負けたからドイツの南洋の領土を日本が取ることができた。アメリカのモンロー主義がありましたから、太平洋を自由に支配できた時代ですね。
李:日本の当時の構想はね、朝鮮半島、それから満州、それからモンゴルとかという風につなげて日本列島と繋げると。そうするとものすごい豊かな地域ができるんですよ。本当はそれも日本にとって大きな仕事だったのに、南の方に拡張したことが問題だったと思います。
中野:大東亜共栄圏というのは、南洋も含めるのですね。
大西:ある種含まれていると思うんですね。例えば、今でいう南沙諸島、西沙諸島は、当時台湾の一部でした。だからそういう意味でも南洋協会のベースが台湾にあったというのは割と自然なことです。
中野:いまだ台湾の日本に対するイメージがいいですね。
大西:とにかく南洋諸島に対する基地として台湾が存在したわけです。
松本:今のお話に引き継ぎますが、台湾がうまくいきすぎたんです。これはアメリカが戦後日本でうまくいきすぎたのと同じような構造があって、台湾にとって不幸なことともいえます。今もって台湾が中国と対立するのに、日本との歴史的な交流があったことが、非常に大きいと思います。李登輝とか具体的な人物を上げなくてもわかると思います。
 もう一つは李先生の話ですが、なぜ満州が生命線とか、言い出したのか? これは緒方貞子さんの本を読んでわかったんですが、私たちが考える以上に関東軍というのは左翼思想の影響を受けているということ。この点は僕、日本人はもっと知る必要があると思うんですね。だから満州で理想の国をつくろうとか言いますが、それは確かに貧しい東北の兵士の中にはあったんですよ。
中野:松本先生がおっしゃるように戦争の一つのファクターというのは経済的貧困とかあると思うんですが、いかがですか竹中先生。
竹中:貧困……、経済と戦争の関係は、それほど単純じゃないと思います。
松本:今の話の続きですが、新渡戸がですね、アメリカからお前何言ってるんだと言われたのと、もう一つ、先ほどの共産主義と軍閥だけれども、軍閥がだめだと言ったんです。
中野:緒方先生の本からの知識ですが、左翼思想と軍部とが結びついていると、天皇陛下が暗殺される可能性があるから、知識人を含めて何も行動できないような状況ができてしまったことに大きな日本の過ちがあるという見解です。
李:僕はここでは異質な人間かもしれませんが、日本の過去の歴史を批判する人がたくさんいるということ、政治的なこととは全く関係なく、日本という国は近代明治維新以降一番アジアでは外の世界をよくわかっていた。だから日本が戦争で負けたけれどもやはり日本はアジアではスターなんですよ。戦争で他の国をいじめたかもしれませんが、(経済的にはね)日本がそれをしなかったら日本がどうなったか。歴史には「もしも」はないんだけれど、そうした場合に日本は明治維新以降、外国に植民地にされないためにいろんな悩みがあったんですね。ですから、南進論もそうなんですが、大アジア主義を唱えて、最初は中国と韓国と力を合わせてやろうとしてたのが、それが失敗して、違うことをやっている、だから歴史からすると日本の選択が必ずしも僕は間違っていなかったと思います。
大西:間違ってないというとちょっとややこしいですが、ちょっと似た主張として述べると、その時代に生きてしまうと、どうしてもそういう気分になるということですね。
(皆:その通りですね)本当にそう思うんですね。つまりちょっとした間違いでひよっと戦争に行ったんではなくて、もっと太い、ある種の必然に近いような、そういう流れだったと。だから話は相当深刻だと。
李:その通りです。歴史について、今みんな賢そうにいろんなことを言うけれど、その時代に生きる人は、好き勝手なことを言えないですよ。
大西:そうだと思いますよ。帝国主義の時代だったのですから、日本は西洋列強の植民地にならないでいるためには帝国主義にならざるを得なかった。そういう時代的な制約があったわけですが、その中でもやはり舵取りの問題があるわけですね。英米との袂をわかってドイツについてしまったと。そこに至る過程の問題ですね。
中野:時間なので次にいきます。

12 月 24

中野:南洋協会の役割と見解ということで、李先生一言お願いします。
李:調査研究が一項目に挙ってるんですね、つまり南洋、当時日本は植民地政策を進めたのもおそらく日本にはエネルギー資源の危機感があって資源が豊富な中国の東北や南洋諸島に進出した。南洋協会の基本的な役割は今も変わってない。つまりシンクタンクというか調査をしてそれをどうするかという、政策にどう反映するかということを行った。その後、次第に南洋協会の役割が変容していくんですね。
中野:まず調査が入って実践ということで、大西先生。
大西:そうですね。慶應義塾には90何年前の南洋協会の雑誌とかが残っていまして、私もかなり見せていただき、またこれらを勉強しました。明治期に征韓論と言われましたね。それが大正期に南進論となり、南洋協会がそれを推進しました。ただし大正期は経済的な進出論が中心だったのが、昭和期に入るとかなり軍事的な色彩を被るようになっています。ので、その推進役を南洋協会が担ったという否定的な面も同時に見て、それをそのまま肯定しないこと、そうしないと戦後の世界では日本は生きていけないということは大事なことだと思います。
ちょっとだけ中味に触れますと、日中戦争を聖戦だと南洋協会の雑誌には書かれています。また、日中戦争以来、世界は中国や列強の宣伝で日本は誤解されているというようなことも書かれています。つまり、あの日本の悪事をこうして合理化していました。南洋協会はそういうプロパガンダの機関でもあったということをちゃんと認めたうえで、同時に思ったのがすごくまともなこともしているということです。
先生がおっしゃったように、商品陳列ショーというのを行っていますが、良い商品を見てもらって買ってもらうのは別に悪くないですね。人類学とか文化研究を行ない南洋にどういうものがあるのかという知識を増やした、企業家の経験を活かしたこうした活動もそれは悪いことではありません。
李:それはいつから方向転換するのですか? 30年代に入ってからですよね?
大西:いろいろ読んだところによりますと、当初イギリスとかは自由貿易の立場に立っていたので、イギリスの植民地では日本も活動することできました。本当はいろんな活動への制約があって、南洋協会としていろいろ注文をしているのですが、その時には経済が大事だと、進出は経済分野だと書かれています。ただ、途中からやはり欧米列強によるABCD包囲網が成立して、今後は単なる経済的なものだけではだめという話になりました。
中野:まず日清戦争が終わって、日本は中国からの賠償金を活かしながら、まず満鉄とか大陸中心、政府の主流が大陸論でした。南洋というのは、マイノリティでした。
李:だから台湾総督府とすごく近いですよ。最初事務局も台湾総督府東京出張所に置いてあったんですね、ということは台湾植民地政策をどうのように評価するかということが重要です。最初の意気込みというか、あれは僕は悪くなかったと思います。
中野:悪くなかったですね。いずれにしろ日本というのは資源がありませんから、南洋で資源を確保するということで、台湾総督府の経済的な成功例を南洋に持っていったのでしょう。
竹中:当時は、やはり経済的な進出と軍事的な進出が一体化してしまう帝国主義の時代だから、今僕のエコノミストの感覚では全然通用しないと思います。
松本:台湾に関してカリキュラムを見たのですが、非常に南洋を勉強しているのですね。向こうの現地の人たちを教師に仕立てるような日本のカリキュラムを持って行って、学校を各地に作っているわけです。先ほど言ったように、最初の目的というのは確かに文化交流みたいなことも含めて歴史的な南洋の勉強ということもありました。端から資源をとか、侵略というのは、一部の人にはもちろんあったと思いますが、これに非常に大きな働きかけをしたのが、新渡戸稲造だと思います。彼を失ったということはやはり西洋から日本が孤立していった大きな動機になると思います。
 それから満州のことを言われましたが、これは間違いなく後藤新平だと思います。中村是高がやはり満州の方に目を向けた。後藤新平に可愛がられて40歳なんかで総裁になったし、東京市長も経験していますよね。ですから日本の政府ともつながっていたと思います。
中野:本当にそうそうたるメンバーで構成されていますね。南洋協会のビジョンは間違いなかったけれども、しかし、実際に戦争という方向に向かったのは事実です。限界という観点から何かありますか?
李:ですからこれは南洋協会だけを見ると、歴史の中で人間も団体組織も歴史をチョイスして存在できないですね。今見ると当時こうすればよかったというんだけれども、歴史の流れというのがあって、当時の日本がおし進めた政策はみんな正しいと思ったわけです。ですから南洋協会もそこに協力したというか、その波に乗ってそういうことをやったと思います。
中野:外交政策決定過程論。その当時人物と人物でどういう化学反応を起こしてどうなるのかという分析。しかし世界情勢の波の中で、これほど人物がいたのに戦争の方向に持っていかれてしまった。財団設立時の1915年というこの時点というのは第一次世界大戦の最中で、日本はその後戦勝国になって豊かな大正時代が来るけど、1929年の経済的クラッシュによって大きく変更していくと思うんです。やはりその辺の経済的なファクターを分析することが大事だと思いますが、どうですか、竹中先生。
竹中:戦前の日本の失敗ということに関して言うと、やはり満州国を作ってしまってそこで止まらなくて、そのまま中国との全面的な戦争に突入していってしまった。その過程で東京が関東軍をコントロールすることができず暴走してしまうわけです。それが結局、戦争の拡大を招いてしまった。よく言われることですが、やはりその辺に決定的な問題があって、中国大陸全般に日本が権益を拡大していく過程で、結局、米英の利益とも決定的に対立しました。第一次世界大戦は米英について戦勝国になったにもかかわらず、結局中国との関係に失敗して、米英と対決するという構図で第二世界大戦、太平洋戦争でボロボロに負けるという、そのへんが失敗の分岐点になったと思います。
中野:当時の日英同盟を中心に考えたらいいと思いますが、やはりアングロサクソン中心のロンドン軍縮会議、ワシントンの軍縮会議で日本国内の不満が高まったと思います。そのへんはやはり問題があると思います。エコノミストの大西先生。
大西:ちょっと違う観点ですが、先ほど李さんの話を引き継ぎまして、大事だと思うのは、実はこういう流れの中で人は動いていたということです。私は新渡戸と後藤は良いとかいうふうには思わないのです。
 私は中国少数民族問題に興味がありますので、マイノリティの目から見たらどうなるかいう視点でものを考えるのですが、例えば北海道開拓も新渡戸ですよね。そこでいくとアイヌ人からはめちゃくちゃ悪いやつとなります。やはりそういうことがあるんで、彼は良い奴、彼は悪い奴と区切られないと、まさに先生がおっしゃったような趣旨で思うのです。世の中全体が変っていったところの内部での話に過ぎながったというのが一点です。
 それから、新渡戸が戦争を主張したかどうかは知らないし、言わなかったかも知らないですが、もし抑圧的な戦争は主張しなかったとしても、少数民族を抑圧したとか、台湾住民を差別したとか、そのレベルの話が戦争と独立にあると思うのです。やはり原住民の反発があったとか、そういう話がやはり一杯出てきますね。それが一つの論点だと思います。
李:もう一点すごく大事なのは、僕がこのヘネシーの存在を知ったのは10数年前なんですが、おそらく中国人はそうだと思う。しかし、日本人は100年前にヘネシーを知って(人によりますが)、新渡戸稲造や福沢諭吉が外国に行ったり、それらのことをどう評価するかはまた長い時間が必要ですが、日本はやはりアジアの先駆者なんですね。悪いこともあったかもしれませんが、そこには試行錯誤があって、満州を占領して南もやってみようという、その時代の英雄たちのなんというか、日本人は当時良い意味での夢があったんですよ。
中野:明治維新から3〜40年の時点でしょう。
李:いろいろ本を読むと、その時代の日本人はものすごい躍動的というか、今とちょっと違う、元気があるというか……。
中野:みなさん今日ヘネシーで酔っぱらいながら思いっきり先人が行ったように国際情勢の変化の中でどの方向に進むべきかを考え語ることが大事ですね。日本は敗戦国になったんですが、当時の状況をもう一度ゆっくり具体的に分析する必要が絶対あると思います。
 あっという間に第2回目が終ってしまいましたが、もう一度南洋協会100周年祝って、乾杯!!

12 月 17

中野:みなさんこんばんは。火曜日夕方6時はラジオカフェーシンクタンクジャーナルの時間です。世界の中の日本・京都を語る番組です。
 パーソナルティの大阪学院大学経営学部教授、並びに一般財団法人アジア南洋協会の理事長の中野有です。本日は、スペシャル番組ということでこれから15分間番組を8回連続で収録していきたく考えています。ちょうど100年前1915年第一次世界大戦の最中に南洋協会が日本の半官半民という国策に近いような形態で設立されました。100年記念番組として、南洋協会の理事並びに評議員のみなさんに集まっていただきまして、ヘネシーというブランデーを飲みながら思う存分語っていただきたく思っています。なぜヘネシーというブランデーかと申しますと、僕は坂本竜馬を尊敬しておりまして、坂本竜馬の弟子の中江兆民が岩倉具視一行の船に乗ってアメリカ、ヨーロッパへ1年8か月旅に出ました。その中江兆民が、3年くらいパリで生活し、東洋のルソーとして自由民権運動等の研究をして、日本に戻って来ました。当時、日清戦争が始まろうとする時勢でした。
 弱肉強食の帝国主義がアジアに蔓延する国際情勢の変化の中で、三人の酔っ払いがヘネシーというブランデーを飲みながら夜を徹して日本の進むべき道について熱く語りました。それは哲学者ヘーゲルの弁証法である正・反・合のアウフヘーベンの考察でもあります。
 3人は中江兆民の分身でありまして、一人は「豪傑君」で今日の日本の進むべき道は、日本が植民地化されることを回避するために大陸に進出すべきであると主張しました。そして酔いに任せて、これも中江兆民なんですが、パリから帰国した「洋行帰りの紳士」が日本の喫緊の仕事は、経済協力と文化交流を推進することで、西欧の列強や周辺諸国からの尊敬や信頼醸成が生まれ日本は決して侵略されないとの持論を述べました。今でいうソフトパワーを強調しているのですね。それを聞いていた3人目の中江兆民の分身、「南海先生」は豪傑君の主張は正しい、日本が大陸に進出しなければ日本というそのものが消滅してしまう可能性がある。しかし、大陸に出ることによって必ず戦争に負けて大変な状況になることは確かである。洋行帰りの紳士が言っていることは単なる理想にすぎない。しかし100年の時を経て、洋行帰りの紳士が語る理想は実現される可能性があるということを示唆しました。
 まさにこの南洋協会というのは南海先生のような南の海の深く広い思想を目指し、未来に向けてのビジョンを構築しようと考えた財団であります。そういう意味で今から、思う存分100年前に設立されました南洋協会についての歴史を振り返りながら考察すると同時に、財団のレガシーを活かしながら21世紀の今日のビジョンを探求したく思います。まずは今回のトークのメンバーを紹介させていただきます。年功序列で行きます。
 松本浩二先生です。
松本:はい、こんばんは。 
中野:松本先生は40年近く京都ノートルダム学院小学校の教員として教育に携わり、そして今は南洋協会の評議員の筆頭としてアドバイスをいただいております。次は大西広先生。
大西:はい、ご無沙汰です。
中野:大西先生は京都大学、若くして京都大学の教授になられて、世界マルクス学会の副会長をされました。
大西:だいぶ前ですけどね。
中野:現在慶應義塾大学の経済学部の教授です。
大西:はい、そうです。
中野:そして竹中正治先生です。竹中先生は僕がワシントンでお会いしたのは三菱東京UFJ銀行のワシントンの事務所に勤務されていた時ですね。
竹中:こんばんは、よろしく。
中野:はい、現在、龍谷大学経済学部教授です。
 そして僕の大の親友の李相哲先生です。財団の会長です。
李:はい、こんばんは。よろしくお願いします。
中野:先生は現在、龍谷大学社会学部教授でテレビでもお馴染みの東アジアの外交・安全保障等の専門家であります。
 ここからスタートですが、我々はヘネシーというブランデーを飲んで酔いが回ってきたところです。そこでまず李先生からいいですか。
李:はい、いいですよ。
中野:会長ですので。
李:100年前にヘネシーを飲みながら世界を語ったというのは今日初めて聞きました。その位歴史のあるお酒なんですね。このアジア南洋協会の前身の南洋協会についていろいろ調べていたんですが、創立メンバーがそうそうたるメンバーだとわかるんだけれども、一番初めの総会が築地の精養軒で開催されました。当時は東京にフランス料理が全然なかったんですよね。だからそこで、やはりワインとかを飲みながらやったんじゃないかと想像します。
 当時創立メンバーの中で一番有名というかみんなが知っている人を一人あげるとすれば、新渡戸稲造です。当時、彼はちょうど今の我々の世代なんですよ。57歳なんですね、ですから僕より少し上です。
中野:新渡戸稲造は財団法人南洋協会設立の数年後、第一次世界大戦の終了後に、国際連盟の事務局長ナンバー2としてジュネーブを本拠地に世界平和のために尽力しました。
李:そうですね。彼が武士道という本を書いたのが1900年ですね。ですから1900年は彼がちょうど38歳ですかね。それから15年後にこの創立メンバーになったというのは当時既にすごく有名だったんですね。
中野:そうですね。大西先生、南洋協会の発起人の一人が慶應義塾大学塾長ですね。
大西:そうですね。創立総会の座長は近藤廉平、それから発起人の筆頭には犬養毅が入っています。一応福沢の弟子です。
中野:犬飼も慶應ですね。
大西:100年くらい前に活躍した人物となると百何十年前に大学を卒業していないといけないですね。そうなるとどうしてもそういう古い大学から出た人間が多くなるのです。また、慶應義塾はあまり官界に行くな、政治家にあまりなるなと教えられましたが、その結果、財界系の人物の多い南洋協会とやはり関係が深くなったのだとこの創立メンバーを見て思いましたね。
中野:さて、竹中先生。経済学者としてこのそうそうたる創立メンバーをどのように思われますか。
竹中:昔のことは詳しくないのですけどね、みなさん昔の話をするので、私も昔の話をさせていただくと。私は大学の教員になる前に先ほどご紹介いただいた通り、30年間、三菱東京UFJ銀行で働いました。もともと入ったのは東京銀行という国際金融専門の銀行です。東京銀行というのは前身が戦前の横浜商金銀行です。いわゆる国策国有銀行です。当時日本の外国為替取引と国際貿易などに関する金融をほぼ独占していました。
 その頭取に高橋是清がなっております。高橋是清はみなさんご存知の通り、30年代前半の日本の大不況の時にケインズがまだ一般理論の本を出版する以前に財政と金融を総動員した一種のリフレ政策を実施しました。混迷する日本経済を救済する役割を果たしました。今日本はデフレという状況に90年代後半以降入っているわけですけれども、いろいろな形でリフレ政策が投入されて、どうなるかという状況にあります。まわりまわっての歴史、大きな循環のようなものを感じます。
中野:外交安全保障の限界の延長線上に戦争というものが勃発しているんですが、その背景には経済的ファクターが大きいですね。松本先生、先生にお願いしたいのは乾杯です。
松本:乾杯? 言いたいことあったんですが、乾杯になりましたので、「アジア南洋協会」創立100周年おめでとうございます。乾杯!! 乾杯!! ありがとうございます。飲めない私が飲むとちょっと興奮してきますが。
 ちょっとみなさんの発言にバイアスをかけるようなこと言いますが、日本は、戦争に対する反省をするとき、必ず出てくるのが国策という言葉なんです。「国策」でとか「帝国主義的」にとか「西洋列強に習って」とか、「植民地政策」でとか、「侵略」でとかね。これを僕は、きれいに排除して、戦後の意味がステロタイプになって新鮮に問えないので、日本の将来が見えないないのではないかと思うんですよ。今みなさんが「国策」云々と言っていましたけどね、『南洋協会』は確かに大正4年1915年にできたんですが、今問うべきは国策設立「南洋協会」100周年ではないと思います。
 実は、来年の1月30日に100周年を迎えるのですが、国策という言葉が使われるのは政府関係者がリードしたのは事実ですが、例えば座長の近藤廉平、彼は男爵で、つまり、宮中との関係、何らかの形で軍部との関係などであれ、やっぱり、当時すでにアンシャンレジュームになりつつあった帝国憲法によるようなところがあったと思います。それがすぐに「国策」という言葉を思い起させるんですが、この設立時には内田嘉吉が代表して挨拶をしているんです。この挨拶が実は素晴らしいですよね、台湾総督府の民生長官でしたね。
 彼がその時に言ったのは、これはあくまでも南洋の調査研究ではあるけれども、実は広く南洋の西洋列強進出を踏まえアジア南洋の理想郷の理念もあったわけです。更に福祉のためにもこの成果は生かすべきであるという話でした。だからそこはちゃんと抑えとかないと。
中野:南洋協会の役割を一言で言いますと、当時第一次世界大戦の最中に設立されたということは不確実性の高い状況における日本の明確な進路を探求する研究機関、今で言うシンクタンクの役割を担っていたように察します。この戦争でドイツは負けるんですが、ドイツが多くの南洋諸島を持っていたので日本が戦勝国として南洋諸島を手に入れました。そこで南洋を制する者は世界を制するということでこの半官半民の南洋協会がかなり力を持って南洋のエネルギー確保のために貢献し、そして教育分野にも力をいれて具体的な政策を実施したのだと思います。日清戦争と日露戦争に勝利した日本が第一次世界大戦でたいした貢献もしてないのに戦勝国になったことで驕りが生まれたという時代背景を想像します。
 15分番組を8回連続して行うのですが、何か最初は乾杯だけで終わってしまったようですね。酔いに任せてまた続けていきたいと思います。最初の予定とちょっと違いますが、最初から酔ってるんでこんなもんかと。みなさんエコノミストや社会学者いろんな分野の専門家ですので語ることは非常に多岐に渡っていくと思います。ということで南洋協会の紹介ということで第1回目これで終わりたいと思います。また乾杯!