12月 24

中野:南洋協会の役割と見解ということで、李先生一言お願いします。
李:調査研究が一項目に挙ってるんですね、つまり南洋、当時日本は植民地政策を進めたのもおそらく日本にはエネルギー資源の危機感があって資源が豊富な中国の東北や南洋諸島に進出した。南洋協会の基本的な役割は今も変わってない。つまりシンクタンクというか調査をしてそれをどうするかという、政策にどう反映するかということを行った。その後、次第に南洋協会の役割が変容していくんですね。
中野:まず調査が入って実践ということで、大西先生。
大西:そうですね。慶應義塾には90何年前の南洋協会の雑誌とかが残っていまして、私もかなり見せていただき、またこれらを勉強しました。明治期に征韓論と言われましたね。それが大正期に南進論となり、南洋協会がそれを推進しました。ただし大正期は経済的な進出論が中心だったのが、昭和期に入るとかなり軍事的な色彩を被るようになっています。ので、その推進役を南洋協会が担ったという否定的な面も同時に見て、それをそのまま肯定しないこと、そうしないと戦後の世界では日本は生きていけないということは大事なことだと思います。
ちょっとだけ中味に触れますと、日中戦争を聖戦だと南洋協会の雑誌には書かれています。また、日中戦争以来、世界は中国や列強の宣伝で日本は誤解されているというようなことも書かれています。つまり、あの日本の悪事をこうして合理化していました。南洋協会はそういうプロパガンダの機関でもあったということをちゃんと認めたうえで、同時に思ったのがすごくまともなこともしているということです。
先生がおっしゃったように、商品陳列ショーというのを行っていますが、良い商品を見てもらって買ってもらうのは別に悪くないですね。人類学とか文化研究を行ない南洋にどういうものがあるのかという知識を増やした、企業家の経験を活かしたこうした活動もそれは悪いことではありません。
李:それはいつから方向転換するのですか? 30年代に入ってからですよね?
大西:いろいろ読んだところによりますと、当初イギリスとかは自由貿易の立場に立っていたので、イギリスの植民地では日本も活動することできました。本当はいろんな活動への制約があって、南洋協会としていろいろ注文をしているのですが、その時には経済が大事だと、進出は経済分野だと書かれています。ただ、途中からやはり欧米列強によるABCD包囲網が成立して、今後は単なる経済的なものだけではだめという話になりました。
中野:まず日清戦争が終わって、日本は中国からの賠償金を活かしながら、まず満鉄とか大陸中心、政府の主流が大陸論でした。南洋というのは、マイノリティでした。
李:だから台湾総督府とすごく近いですよ。最初事務局も台湾総督府東京出張所に置いてあったんですね、ということは台湾植民地政策をどうのように評価するかということが重要です。最初の意気込みというか、あれは僕は悪くなかったと思います。
中野:悪くなかったですね。いずれにしろ日本というのは資源がありませんから、南洋で資源を確保するということで、台湾総督府の経済的な成功例を南洋に持っていったのでしょう。
竹中:当時は、やはり経済的な進出と軍事的な進出が一体化してしまう帝国主義の時代だから、今僕のエコノミストの感覚では全然通用しないと思います。
松本:台湾に関してカリキュラムを見たのですが、非常に南洋を勉強しているのですね。向こうの現地の人たちを教師に仕立てるような日本のカリキュラムを持って行って、学校を各地に作っているわけです。先ほど言ったように、最初の目的というのは確かに文化交流みたいなことも含めて歴史的な南洋の勉強ということもありました。端から資源をとか、侵略というのは、一部の人にはもちろんあったと思いますが、これに非常に大きな働きかけをしたのが、新渡戸稲造だと思います。彼を失ったということはやはり西洋から日本が孤立していった大きな動機になると思います。
 それから満州のことを言われましたが、これは間違いなく後藤新平だと思います。中村是高がやはり満州の方に目を向けた。後藤新平に可愛がられて40歳なんかで総裁になったし、東京市長も経験していますよね。ですから日本の政府ともつながっていたと思います。
中野:本当にそうそうたるメンバーで構成されていますね。南洋協会のビジョンは間違いなかったけれども、しかし、実際に戦争という方向に向かったのは事実です。限界という観点から何かありますか?
李:ですからこれは南洋協会だけを見ると、歴史の中で人間も団体組織も歴史をチョイスして存在できないですね。今見ると当時こうすればよかったというんだけれども、歴史の流れというのがあって、当時の日本がおし進めた政策はみんな正しいと思ったわけです。ですから南洋協会もそこに協力したというか、その波に乗ってそういうことをやったと思います。
中野:外交政策決定過程論。その当時人物と人物でどういう化学反応を起こしてどうなるのかという分析。しかし世界情勢の波の中で、これほど人物がいたのに戦争の方向に持っていかれてしまった。財団設立時の1915年というこの時点というのは第一次世界大戦の最中で、日本はその後戦勝国になって豊かな大正時代が来るけど、1929年の経済的クラッシュによって大きく変更していくと思うんです。やはりその辺の経済的なファクターを分析することが大事だと思いますが、どうですか、竹中先生。
竹中:戦前の日本の失敗ということに関して言うと、やはり満州国を作ってしまってそこで止まらなくて、そのまま中国との全面的な戦争に突入していってしまった。その過程で東京が関東軍をコントロールすることができず暴走してしまうわけです。それが結局、戦争の拡大を招いてしまった。よく言われることですが、やはりその辺に決定的な問題があって、中国大陸全般に日本が権益を拡大していく過程で、結局、米英の利益とも決定的に対立しました。第一次世界大戦は米英について戦勝国になったにもかかわらず、結局中国との関係に失敗して、米英と対決するという構図で第二世界大戦、太平洋戦争でボロボロに負けるという、そのへんが失敗の分岐点になったと思います。
中野:当時の日英同盟を中心に考えたらいいと思いますが、やはりアングロサクソン中心のロンドン軍縮会議、ワシントンの軍縮会議で日本国内の不満が高まったと思います。そのへんはやはり問題があると思います。エコノミストの大西先生。
大西:ちょっと違う観点ですが、先ほど李さんの話を引き継ぎまして、大事だと思うのは、実はこういう流れの中で人は動いていたということです。私は新渡戸と後藤は良いとかいうふうには思わないのです。
 私は中国少数民族問題に興味がありますので、マイノリティの目から見たらどうなるかいう視点でものを考えるのですが、例えば北海道開拓も新渡戸ですよね。そこでいくとアイヌ人からはめちゃくちゃ悪いやつとなります。やはりそういうことがあるんで、彼は良い奴、彼は悪い奴と区切られないと、まさに先生がおっしゃったような趣旨で思うのです。世の中全体が変っていったところの内部での話に過ぎながったというのが一点です。
 それから、新渡戸が戦争を主張したかどうかは知らないし、言わなかったかも知らないですが、もし抑圧的な戦争は主張しなかったとしても、少数民族を抑圧したとか、台湾住民を差別したとか、そのレベルの話が戦争と独立にあると思うのです。やはり原住民の反発があったとか、そういう話がやはり一杯出てきますね。それが一つの論点だと思います。
李:もう一点すごく大事なのは、僕がこのヘネシーの存在を知ったのは10数年前なんですが、おそらく中国人はそうだと思う。しかし、日本人は100年前にヘネシーを知って(人によりますが)、新渡戸稲造や福沢諭吉が外国に行ったり、それらのことをどう評価するかはまた長い時間が必要ですが、日本はやはりアジアの先駆者なんですね。悪いこともあったかもしれませんが、そこには試行錯誤があって、満州を占領して南もやってみようという、その時代の英雄たちのなんというか、日本人は当時良い意味での夢があったんですよ。
中野:明治維新から3〜40年の時点でしょう。
李:いろいろ本を読むと、その時代の日本人はものすごい躍動的というか、今とちょっと違う、元気があるというか……。
中野:みなさん今日ヘネシーで酔っぱらいながら思いっきり先人が行ったように国際情勢の変化の中でどの方向に進むべきかを考え語ることが大事ですね。日本は敗戦国になったんですが、当時の状況をもう一度ゆっくり具体的に分析する必要が絶対あると思います。
 あっという間に第2回目が終ってしまいましたが、もう一度南洋協会100周年祝って、乾杯!!

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