1月 07

中野:今日も引き続き南洋協会100周年ということで、ヘネシーというブランディーを飲みながら思う存分語りたいと思います。
 龍谷大学経済学部教授の竹中先生、龍谷大学社会学部教授の李相哲先生、そして評議員の松本先生、慶應塾経済学部教授の大西先生でよろしくお願いします。
 さて大西先生、なぜ日本は戦争を行い、敗戦国になったかということなんですが、その前に何かありましたらお願いします。
大西:先ほどの話でありましたのは、やはりそのような戦争に向かうのはある種の強い大きな流れがあったという話ですね。先ほども言いましたように、いろいろと南洋協会の書籍や講演とかに目を通して思ったことの一つは、正当なことも言っている、ということなんですね。例えば、フランス領インドシナに日本の企業が入れなかったのはフランスがそういう政策をとっていたからなのですが、その結果、ここには南洋協会の支部もないですね。なので、当初、南洋協会はそういう政策をやめてくれとか、イギリス植民地での日本人の土地の取得制限をやめてくれとか、オランダ領インドネシアでの電信の検閲をやめてくれというような要求をしています。
 これは要するにフランス帝国主義とかイギリス帝国主義とかオランダ帝国主義とかの不当な事業活動に対する制約に対して戦ったということで、これは正当な要求だったと私は思うんですね。そこまでいくと、その後こういう制約の中で戦争に突入していってしまったということは帝国主義間戦争ということになります。第二次世界大戦というものは植民地・反植民地の戦いであり、ファシスト・反ファシズムの戦いという性格も持っていましたが、同時に帝国主義と帝国主義の間の戦いでもあったと、このことを忘れて、ただただ日本が悪いことをしたという単純な理解は良くないと思います。
中野:南洋協会設立の中心人物であった牧野伸顕がベルサイユ講和条約の時に大使だったのですが、人種差別撤退提案を通じて大西先生がおっしゃったように アングロサクソンとか白人中心の行動に真っ向から異を唱えました。
李:僕はほかの地域はあまり詳しくないんですが、満州をいいますと、満州の利権はアメリカもほしかった。それを日本が、我々はたくさんの人命を犠牲にしてロシアと戦って勝ち取ったんだ、だからこれは日本の物だと。その当時、大局的に観て、アメリカと鉄道の利権とかを少しでも分け合っていたら歴史は全然変わっていたと思いますね。
中野:フォーリン・アフェアーズという権威ある外交雑誌に興味がある論文の中に、李先生がおっしゃたようなことが掲載されています。ユダヤ系のハリマンという鉄道王は、北米大陸を横断し、太平洋を渡り、シベリア鉄道の如くユーラシア大陸を東西につなげるという壮大な開発構想を描きました。そのためには、満州が重要な拠点となり日本に協力を求めたのです。ユダヤ系が北東アジアにおいてイスラエルのような国家を作るという構想に対して、日本は協力すべきであったと考えます。そうすることによって、日本はドイツのように反ユダヤ的な動きと関係を深めるよりも、アングロサクソンと組みながらユダヤと一緒なってやることによって第二次世界大戦を回避できだと思うんですね。
 第一次世界大戦の時と同様に、日英同盟とアングロサクソン・ユダヤと協力関係にあれば、第二次世界大戦の犠牲になることはなかったように思うわけです。
李:ですから、日本は歴史から学ぶとすれば、各論で言えば日本が正しいんですよ、例えば鉄道利権は我々が正当に勝ち取ったんだと。しかし、世界全体の雰囲気というかそういう大局的な観点から満州をどうするかとかのそういう部分で日本は誤ったんですね。もう一つは満州の利権に留まればよかったですが、欲張りすぎたんですね。
竹中:歴史を振り返る時に一番やってはいけないことは、今の価値観で以て50年、100年前の出来事を良いの悪いのっていうのは非常に簡単で、俗流の歴史の議論の中で横行していますが、それはやはり決定的に間違いだと思います。
 第二次世界大戦というのは3つの要素があって、植民地の独立運動の要素は確かにあった。それからファシズムと民主主義の戦いいう要素もあった。それから帝国主義と帝国主義の戦いもやはりあっただろうと思います。しかしながら、当時を生きた人達にとって帝国主義対帝国主義という面が最も一般的であり、最初の二つは実は戦争が終わってから、強調されるようになったイデオロギーであると僕は思っています。それでも敗戦国と戦勝国とにわかれ、敗戦国の敗戦を批判するイデオロギーと議論とそれから戦勝国を正当化する議論、そういうものがやはり戦後支配的になったわけです。
 僕たちが歴史を振り返るときにはその辺の問題を一度取り払って考えてみる必要があって、この日本の戦後の支配的な考え方は歴史を見る目としてはちょっとおかしいと思っています。
中野:今のこの価値観を全部忘れて1915年とか30年の時代で日本は日清、日露戦争、第一次世界大戦に3連勝し勢い乗っている、そのような状況の中で考えるといろんなオプションがあったと思うんですが。
松本:今お話しいただいた、竹中先生の話はその通りでね、私もそう思うんですよ。どうしてもその当時の人たちの感覚というのはなかなか想像しにくいんですよ。それをしっかりと捉えなければいけないので、そのためには当時の演説とかの個人少数者の思想とかを研究する必要があると思うんです。結構この人達がいわゆる大衆とか世間を代表するところがあるんです。僕がどうしても言いたかったのは後藤新平と孫文です。これは人物伝になるからいいですが、辛亥革命、これに命かけた日本人、犬養毅もそうですが、軍事的な援助に関してもいろんな日本人がかかわっています。やはり中国の革命思想、毛沢東に至るまでの、これは必ずしもフランス革命ばかりと言えなくて、やはり孫文に始まる王道の道があったのです。
中野:孫文の神戸女学院での演説は有名ですね。「西洋の覇道でなく、東洋の王道の干城になれ」と日本の進むべき道を示しました。李先生のご両親は韓国出身で先生は中国で生まれて、韓国・中国・日本とバランスよく東アジアを展望できる立場にあります。李先生がもし100年前いわゆる国策というか、これからの日本をどうしようとか、これからのアジアをどうしようという立場だったらどのように考察されるのでしょうか。
李:当時、韓国の若者は日本にやってきて、福沢諭吉先生にいろいろ教えを仰いだのですよ。しかしこれはそもそも論に戻るんですが、歴史には人間がどうしようもない部分があるんですよね。韓国のその先駆者たちが韓国に戻って福沢諭吉先生のアジア主義を実践しようとして全くダメだったかというと、韓国がそういう風になってないんですよ。それを考えると僕は優秀な人間でもないですが、当時生きていたら、やはり日本と一緒になって当時の知識人みたいに日本になろうとしたんでしょう。当時の若い韓国人たちはね、慶應義塾に来て勉強して帰った人もいるし。
大西:明治維新と同じことをやろうとして、立ち上がったけれど失敗しました。それで朝鮮も中国はだめだという風に福沢が思ってしまったので「脱亜入欧」という言葉ができてしまったわけです。
中野:福沢諭吉の脱亜入欧・和魂洋才や大隈重信のアジア中心の和魂漢才というけど、僕は和魂萬才(わこんばんさい)という考え方が良いと思っています。いまでいうグローバリゼーションというか多極化の時代において、ヨーロッパもアジアも、先進国も途上国も大切だという地球を鳥瞰する「萬」の考え方に重きをおくべきだと思うのです。
 実はこのアジア南洋協会の中心的な役割を果たした井上雅二という人物は、アジアだけを見てはあかんとヨーロッパもみなあかんとグローバルに行動しました。僕も井上のように国連等を通じて世界の様々な地域で開発援助、研究、教育の仕事に従事したのですが、そこで習得したことは、世界を鳥の目のように鳥瞰すること、虫の目のように狭く深く観察して、魚の目のように潮の流れや潮流を感じる能力を高めることです。財団の活動にこのようなことを取り入れたく思っています。
竹中:マクロでもなくミクロでもなく、魚の目というのは潮の流れを感じとることですね。
僕はマクロのエコノミストだから典型的な鳥瞰・俯瞰が大好きです。地球の衛星軌道から地球の大地を見下ろすような鳥瞰が大好きですが、同時に潮の流れというのは非常に重要な見方ですね。特に経済、市場の流れは、時々大きくガラッと変わるときがあります。今また100年に一度の転換点のような気がしますが。時間がなくなりましたので、それはまた次回にします。
中野:15分というのがあっという間に過ぎますね、引き続きそのまま酔いに任せ経綸問答を継続したく思います。アジア南洋協会の理事・評議員の皆様、集まっていただきどうもありがとうございました。

Leave a Reply