京都の三大祭りは、新緑の葵祭、夏の到来を示す祇園祭、京の秋を彩る時代祭。
京の祭りには季節のアクセントがある。
平安貴族の伝統を継ぎ五穀豊穣を祝う葵祭、疫病を鎮める祈願を込めた祇園祭は
千年を超える歴史がある。しかし、時代祭りの歴史は、百十五年と浅い。
近代に始まった時代祭りのルーツを探り、その歴史的位置付けを考えてみたい。
文献によると時代祭りの始まりは、1895年に第四回内国勧業博覧会が
京都に行われることに由来する。それが平安遷都千百年とも重なり、
平安神宮が創建され、その記念事業として時代祭りが始められたとある。
さて、そこで、このお祭りが当時の時代背景の中で、
誰の発想により生まれたのか興味が湧いてくる。
明治維新後の京都は、天皇は東京に移り、かつての文化の求心力が急速に衰えていた。
それを嘆き京都の復興を、地域振興策として具現化させたのが、
京都出身で明治維新の立て役者の岩倉具視であった。
明治維新から3年後に岩倉具視は、維新の英雄・豪傑と1年9ヶ月余りをかけ
岩倉使節団の団長として、欧米の視察を行った。
目的は、欧米の科学技術を短期間で習得し新生国家のデザインを描くことにあった。
岩倉一行は、欧米の科学技術や文明に圧倒されはしたものの、
欧米では成し遂げられなかった無血革命に近い明治維新に触れ、
日本の精神的進歩すなわち日本のこころが物質的進歩を凌駕すると認識したのである。
今でいう外務大臣として世界を視察・観察した岩倉具視は、
東京遷都で荒廃する京都の復興を考案するために1ヶ月近くの現地調査を行ない
「京都皇宮保存に関する建議」を作成した。
京都御所内に平安神宮を造営する計画や葵祭の再興、京都の人々が
演芸奉納の形で参列できる内規を作るなどが描かれている。
これが最晩年の右大臣岩倉具視の京都への貢献であり、欧米のみならず
アジアを漫遊しながら世界を観たからこそ生まれた世界の中の京都の視線であったが、
岩倉具視の死去により、平安神宮創建等の計画の他は実現しなかった。
ところが、約10年の時を経て、内国勧業博覧会や平安遷都の記念行事として
京都の歴史絵巻を内外に表現する時代祭として岩倉具視の発想と意思が生かされたのである。
時代祭の行列は明治維新から平安遷都まで7つの時代を遡る18の列で構成されている。
時代祭は桓武天皇が長岡京から平安京に移された10月22日に行われことからも
時代祭りのクライマックスは、延暦であると考えられる。
紫竹は、その延暦文官の重要な役割を担っており、それが24年毎に巡ってくるのである。
時代祭りの動く歴史絵巻を観ながら千二百年の京都の歴史を学ぶことができるのみならず、
その時代の着物、先人の表情から時空を超越した時代の空気を感じとることができる。
京都の町内会が順番で時代祭りに関わることで、
伝統文化の継承と文化の創造と発展が約束されるのである。
何よりも行列に参加することで、タイムマシンに乗ってその時代の人になりきることが楽しみである。
世界は広く、京都は深い。時代祭を通じ伝統に培われた京都の魅力を世界に発信することで、
京都の地域振興並びに日本の安全保障と世界平和のための一助になるのではないだろうか。